文化・スポーツ委員会では、10月31日(木)~11月2日(土)にかけて、三好長慶縁の地である大阪・京都を訪問した。
<関西を拠点に活動する団体との交流>
リストランテ・ヒロ大阪にて、徳島県人会近畿連合会から木岡清氏(会長)、鈴木忠彰氏(歴史委員会委員長)、下祥造氏(常任理事・事務局長)、三好芥川城の会から板東央靜氏、そして顕本寺住職である菅原善隆氏の5名をお招きし、懇談会が開催された。
関西と徳島が連携して、三好長慶を盛り上げると同時に、大河ドラマへの実現を目指し、地域の活性化に結び付けていくことを改めて確認した。
<講演会>
高槻市立しろあと歴史館にて、中西裕樹氏(高槻市街にぎわい部文化財課主幹)をお招きし、『芥川山城跡と三好長慶』と題して、講演会が開催された。
【講演要旨】
・ 天下人・三好長慶
戦国時代から江戸時代初期にかけての「天下」の概念は、京都を中心とする近畿圏(大阪湾を挟んだ阿波までを含む)を指している。室町時代を開いた足利一族の次に、この世界を単独かつ実力で支配したのが三好長慶であった。
シャトランの『歴史地図帳』には、日本の支配者の変遷が樹木に見立てて描かれている。そこには、「MIOXINDONO」と書かれており、ヨーロッパにも天下人三好が伝わっていた。三好長慶が、日本国内だけではなく、海外でも天下を治めた人物として認識されていたことを裏付けている。
・三好長慶の政治姿勢
三好長慶は、地域の事情を踏まえなければ支配はできないという考えのもと、その地域で力をもっている地元の人たちを政治の対象としていた。
また、戦国時代は水争いが頻発しており、村同士の合戦によって解決を図っていたが、長慶に至っては丁寧な裁判手続きを踏んでいた。
・信長の上洛と芥川山城
信長が上洛前に芥川山城に立ち寄った理由として、信長が長慶を意識していたことが挙げられている。前天下人の居城に入った人物が天下人だという考え方があり、豊臣秀吉が亡くなった後の伏見城(前天下人の居所)に徳川家康は入城している。天下人三好長慶がいた城は、自分がこの後に天下を支配するというポーズを見せた場所という理解も可能である。
<高槻市立しろあと歴史館見学>
大徳寺聚光院蔵の三好長慶のレプリカの肖像が展示されていた。長慶の肖像は南宗寺にも存在し、国の重要文化財に指定されている。そのほか、芥川山城から発掘されたものとして、堀に捨てられていた大量の素焼きのお皿等が展示されていた。
<大徳寺エリア見学>
三好長慶の墓所である大徳寺聚光院への特別拝観と三好長慶と千利休のお墓へのお参り、大徳寺エリアの非公開寺院である黄梅院、興臨院、総見院の見学を行った。
<大西清右衛門美術館見学>
大西家は京都・三条釜座の地で400年続く、千家十職の釜師の家で、当日は、大西
清右衛門氏が製作した釜を見学し、展示室では大西家十六代にわたって厳しい吟味を重ねた数々の逸品を拝見した。