7月12日(金)13時30分から、ときわホールにおいて、三好長慶講演会が開催された。今回は、三好家を文化史的側面からとらえた講演会で、講師に四国大学文学部教授の須藤茂樹氏を迎え、「三好氏と『戦国文化』~日本文化史上における三好氏の位置~」と題して講演いただいた。岡田代表幹事をはじめ101名(一般参加者含む)が参加した。
講演では、戦国時代における「茶の湯」のもつ意味や三好氏とのつながりなどについて、さまざまな茶器・道具の写真を示しながら説明された。
<講演要旨>
徳島は現在でも茶の湯の文化が非常に盛んで、三好氏はもちろん蜂須賀家も有名なお茶人を出した家です。文化史から歴史を考えることも必要ではないかと思っており、
今回は政治ではなく、文化という位置づけで三好氏について考えます。
◇「本能寺の変」もうひとつの歴史的意義
本能寺の変というのはご存知の通り、織田信長が明智光秀に殺されてしまう事で有名です。文化史の側面で見ても、この出来事は非常に貴重なものなのです。実は、織田信長は本能寺の変の夜に、本能寺で公家を集めてお茶会を開いています。そのため、安土城から名物茶器をたくさん持ってきていたのです。次の日に参内(さんだい)し、そこで天皇から位をもらう予定でした。しかし、信長が集めた茶道具が、本能寺の変により一夜で焼かれてしまいました。茶道史の立場からみると、本能寺の変は有名な茶道具が焼けた事件ということになります。このようにお茶の世界から、三好氏や戦国時代を眺めていくとまた違った見え方がしてきます。
◇「戦国文化」とはどのような文化か
「戦国文化」という言葉はまだ世間には浸透していません。戦国時代、応仁の乱により京都は荒廃しました。その時、公家や高僧、文化人が地方の大名を頼り、下向(げこう)したのです。山口市や大分市、あるいは徳島の勝瑞などがそうです。その結果、地方で王朝文化が花開きます。これが、戦国文化で、漢詩や和歌や連歌、茶の湯、学問などがその範疇になります。そのような茶の湯や能、狂言は、今の日本文化の基礎を形作っているといっても過言ではありません。そういう意味では、戦国文化というのは日本の文化を作り上げた基本の部分になるのではないかと思っています。
◇戦国大名と茶の湯
現在の茶の湯は千利休の流れ、「わび茶」です。ところが、戦国時代はこういう「わび茶」が作られていく一方で、武家、公家、寺社、豪商、庶民、それぞれの茶の湯がありました。これらをまとめて茶の湯と考えなければいけません。
現代の茶の湯は、「教養」の茶の湯ですが、中世の茶の湯は政治や経済と密接につながる茶の湯でした。そして、武家の茶の湯には、会所の茶の湯(大勢で催す)と草庵の茶の湯(少人数で催す)の両方がありました。
武家の茶の湯の系譜としては、信長は「名物狩り」をし、茶の湯を許可制にしました。秀吉は、黄金の茶室を作っていますが、一方で千利休を抱えています。家康は幕府の中で茶の湯をきちんと位置付けて、家康のところにすべての名物が集中するようにしています。三好氏が持っていた茶器もほとんどが家康の手に渡っています。主に細川氏、三好氏、松長氏の名物が信長、秀吉、家康に集まっていきます。
◇三好氏と戦国文化・茶の湯
象徴的なのは京都・大徳寺の聚光院です。大徳寺には千利休のお墓があり、以前は聚光院といえば千利休のお墓のことを指していました。しかし近年は、三好家の墓という認識も増えてきています。
また、三好長慶は連歌、三好実休が茶の湯に傾倒していたといわれています。三好長慶と連歌、三好実休と茶の湯、それから刀剣、宗教、なかでも禅宗と日蓮宗、それらが三好一族の文化の特徴的なものになろうかと考えています。
◇まとめ
なぜ戦国武将はお茶を目指したのかというと、それは「慰み」だったのではないでしょうか。死に背中合わせだった戦国武将にとって茶の湯はホッとする一時だったのでしょう。いずれにしても、戦乱に明け暮れたイメージの戦国時代ですが、またそれは躍動感のある時代でもあり、そういう時代に戦国文化が花開いたということになります。
日本文化史上における三好氏の位置というものは、戦国文化を考えないと理解できません。全国的な戦国武将と比べてもひけをとらない文化人であったとされている三好長慶の果たした役割は、非常に大きかったのではないかと思っています。